De Natura Deorum


 夜明け前のカンタガロ・ファヴェーラに、遠吠えの銃声が二発響いた。アトランティカ通りで運送用のトラックが襲われたのだろう。日中に比べれば、ギャングたちの喧噪はすっかり息を潜めており、ファヴェーラの路地には人影はない。ほこりっぽい赤茶の道端で、せわしく地面をくちばしで突いてまわる鶏の影が、薄闇に黒々と移動している。

 カンタガロ・ファヴェーラは、リオ市南部の二大観光地、コパカバーナとイパネマに挟まれた土地に位置する。地理上はコパカバーナ地区の西端にかかるが、歩いて観光するにはイパネマ・ビーチの方が近い。ビーチから徒歩30分ほど北上すればすぐだ。観光客の多いイパネマ市街を見下ろす丘陵に、赤茶や灰のバラックがなだらかな傾斜を形作っている。煤けたレゴブロックの違法建築群である。
 ファヴェーラの真北には林があり、北西には巨大なロドリゴ湖が広がる。三面を海と湖、一面を林に囲まれた、水と緑のファヴェーラと言ってもよい。治安をおけば、まさにリオ市随一の景観を誇る。

 エリウとハインは、三年前にカンタガロに来てからこちら、三日に一回、夜明け前の時間を狙って鶏を盗んで食いつないでいた。飲み水だけは豊富にあるのが救いだろうか。近くのロドリゴ湖は、夏の雨期に氾濫はすれど、冬の乾期にあってもけして乾き切ることはない。イパネマビーチまで歩けば、魚介類の食糧は豊富なのだろうが、エリウとハインは、その生まれ持っての容体のために、白昼に富裕層の市街を突っ切って行くことはできなかった。

 あっと声を上げたエリウが、即座に走り出そうとした。しかし左脚は動かず右脚のみが前に出、勢いよくつんのめった。
「なんだ、急に走ろうとするなよ」
 ハインが、ねじった腰をさすっているエリウを見やる。
 カンタガロの一部の住民は、エリウとハインを合わせて「イプシロン」と呼ぶ。一つの大きな腰から、二対の上半身が生えているからだ。脚は二本、胸と胴と頭もそれぞれ二つある。向かって左側がハイン、右側がエリウである。二人の体は、遠くから見るとまさにYの字のようで、それが「イプシロン(Y)」と呼ばれる由縁であった。
 この体の構造からして、二人はもともと反射的な動きに向いていない。二人が共有している一つの下半身に向けて、きちんと二人の意思を揃えて命令を出さなければ、脚はうんともすんとも言わず動かなくなってしまうか、どうかするとばらばらと縺れて転んでしまう。

「ごめんハイン。でも見ろよ、猫がいる」
 バラックとバラックの間の細い路地に、艶やかな毛並みの黒い猫がいた。二人が近寄っても逃げようとせず、ふくふくした体を丸めたまま置物のように動かない。首輪はないが、富裕層の飼い猫が脱走して紛れ込んだに違いない。二人は目配せをし、四本の腕でほぼ同時に猫の胴を掴みこんだ。眠っているように見えた黒猫は、ぱちりと目を開いた。翡翠の眼球だ。まばたきする様は、遠くから見れば蛍の明滅のようだろうか。一筋細長く埋まった漆黒の瞳孔が三日月形に歪んで、ニャアとかぼそく鳴いた。
「いい肉付きだね。しかも人に慣れてる」
 エリウは両手を伸ばして猫を抱え上げ、にやにやと嬉しそうだ。
「皮の剥ぎ方知ってるか?」
「さあ、鶏よりめんどそうだなあ」
 ハインは猫の肉球で遊んでいるエリウを一瞥し、ズボンのポケットから折り畳みナイフを取り出した。おい、と声をかけると、エリウは名残惜しそうに肉球から手を離し、猫の腹と首を地面に押さえつけた。ぐに、と切れ味の悪くなったナイフを心臓あたりに三回ほど刺すと、もがいた後、猫は動かなくなった。
「水はまだあるし、さっさと帰ろう」
「さすがに猫を食うには覚悟がいるね」
「何の覚悟だ」
「今後一切、猫は飼わないって覚悟だよ」
「確かに」
 ハインはハッと笑ってナイフを収めた。

 二人が住処にしているバラックは北の林近くにある。三年前にカンタガロに住みはじめてから、転々と場所を変えている。その中では今回のバラックはなかなかの優良物件だった。薄っぺらい塗炭の屋根や壁はそこらかしこに穴が空いていたが、当て木をすれば、衆目からは内部を隠すことができる。朽ちかけのベニヤ板のベッドもある。二人は、バラックで昼夜にかけて眠り、深夜に起き出してファヴェーラ内を徘徊する生活を送っていた。
 猫の解体に一時間ほどかかった。首を落とし、皮を剥ぐ。熱湯でよく茹でたのち、はらわたを取り出し、切り分ける。首と皮は林に埋めた。林で採ってきた木の実や草と合わせて何とか腹を満たし、二人してベッドに横になっている時には、日が昇りかけていた。

「起きてたら腹が減る」
誰に言うでもなくこぼしたハインは、枕元にあった麻布を顔に被せて、本格的に朝寝に入った。
「おやすみ」
 エリウは仰向けのまま読書を続けている。いつもの「星の巡礼」だ。この本は、三年前まで二人が暮らしていた病院の蔵書だが、抜け出す際に拝借してきたものだ。「星の巡礼」と「伝奇集」、聴けもしないサティの「ジュトゥヴ」のレコード。二人がここへ来た当初、それぞれ胸にこれらを鉄板代わりに入れていた。二人の姿を見かけると条件反射で発砲するチンピラへの対策だったが、今となっては馬鹿げた気休めに過ぎない。

 バラック屋根の穴から見える朝焼けの強烈な朱が、薄く濃く、蜃気楼のように微細に揺れ動き、雲に色を広げている。閉じた瞼の表から焼けつく朱だ。薄目を開けると、顔に被せた白い麻布の隙間が、磨り硝子の飴のように半透明な消えかけの月になる。

「ねえ、ハイン、アフリカの果てって知ってる?」
 うとうとしていると、突然エリウが声をあげたので、ハインはびくりと目を開けた。
「なんだよ」
「アフリカの果てに異形の街がある。アフリカの果てに行くために、カタコンベのつららの下、水たまりに飛び込んで、下へ下へと潜り続ける。潜りきったら海面に。浜まで泳げばアフリカの果て」
「本の話か」
「違う。夢の話」
 はあ、とハインは息をついた。起こしてまで言う話だろうか。
「猫が言ってたんだ。いつかの夢で。そんで今日猫を食ったもんだから気味が悪くて。啓示ってやつ?」
「馬鹿か。だいたいなんだ。カタコンベって」
「知らない。洞窟みたいなところ」
「アフリカの果てって」
「どんな奴でも仕事ができて、金がもらえるところ」
「やけに都合のいいところだな。どうやって行くんだ」
「だから言ったじゃないか、さっき」
 エリウは億劫そうに、もう一度さきほどと同じことを説明しはじめた。確かに夢でも見ないと生きてゆけないと、ハインは話半分に相槌をうつ。
 夏であっても、三日ほど雨が続けば、穴だらけのバラックはしんと冷える。冬までに毛布を手に入れなければならない。可能なら銃も。
 アウトローでほしいものを無銭で手に入れるには、通常の何倍も苦労する。統治する法がないに等しいこのファヴェーラにおいては、命を掌握する銃こそが権力で、銃を束ねるギャングこそが法である。秩序に従わない人間は、畸形かどうかにかかわらず、なべて家畜以下の死を甘んじて受ける。

「だいたい、つららなんて南部でも見たことないぞ。どこの国のおとぎ話だよ」
 いらだたしげに、被った布の上から額に手を押し付けると、心地よい暗闇ができた。エリウは一通り話して満足したのか、再び本を広げた。
「起こして悪かったよ。寝なよ」
 朝寝を邪魔された仕返しに、隣の腹を思い切り殴ると、エリウはごめんと笑って身をよじった。

***

 水の感触がする。暗闇の中、ぬるま湯のような温度でほのかに弛んで、滑らかに肌を撫でる。視線を落とすと、つまさきが示す遠くの水底に、僅かに発光するものを見つけた。下へ下へ水をかいて深く潜ってゆけば、徐々に水の明度が上がり、夜から朝へ日が昇ったように明るい。急激な明暗の変化に背筋がぞわつき、ハインが強くまばたきをすると、青空が顔を照らした。
 清冽な風が、五感に入り込む。ファヴェーラの、土埃と硝煙に紛れた芯のない風ではない。眼球にまで滲みこむ柱だ。
 首をめぐらすと、500メートルほど先に、浜が見える。真っ白な砂地には、ドーム型の屋根をした石造りの建築物が二、三建っており、うち捨てられたように波にもまれている。浜の地続きに、巨大な街が開けていた。
 暴力的なまでに白い街だ。家の壁と屋根は白く塗られ、窓のみが黒々と口を揃えている。浜と垂直に通った大きな一本通りの石畳が、乾いた日光に白々とハインを迎えていた。大通りを抜けた先の広場には、巨大な噴水の泉が見える。誰かが屋内で練習しているのか、どこからかタブラの音が一定のリズムを打っては、同じところで止まる。街には不自然なほどに人気がなかった。
 ハインが忘我のまま広場を俯瞰していると、広場の隅に佇む黒い猫と目が合った。翡翠の眼球を瞬かせる。猫はすぐにハインから目をそらし、泉から放射状に伸びる路地へ歩き出した。猫は気まぐれに路地の横道へ直角に曲がり、追いかけたハインも続いて路地を曲がった。
 路地の奥に猫はいない。細い路地を塞ぐ位置に置物が置いてある。丸いスツールの上に置かれた少女だ。頭に大きな黒いベロアのリボンをつけ、結ばれた袋の口のように、丸めたブルネットを頭頂部で放射状に遊ばせている。首から幾重にもパールのアクセサリを下げ、丸首の麻のベストの下にレモンイエローのパフスリーブを着ている。腕と下半身がない。ミケランジェロの胸像の少女だ。
「ねえ、ぼうや」
 可憐な鳶色の瞳に似合わず、サラ・ヴォーンの声で少女はしゃべった。
「ちょうどよかった。くそガキにいたずらされてこんな人気のないところにスツールを移されてしまったの。飛び降りてもいいんだけど、痛いでしょ?」
 ハインは物も言わず、少女を見つめた。
「広場へ移動させてくれないかしら。スツールを傾けてもいいけれど、私が落ちないように」
ハインは頷き、少女の背中側に回り込み、少女を抱え込むようにスツールを持った。慎重に路地を歩く。
「ありがとう。私、マルタっていうの」
あなたたちは?ときかれ、とっさに隣を見たが、エリウはいない。
「誰のことを言っているんだ」
 足元を黒い影がすり抜けた。唐突な衝撃に、脚を縺れさせてしまい、スツールが前に傾いた。マルタの体が頭からカーブを描いて落ちていく。
 タブラの音が鳴り止まない。少女が石畳に毬と弾んだ。

('090402) '130615改稿 : ナトゥラ・デオルム De Natura Deorum -神の本性について-

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